ポジティブな死(仮)

昔から死について考えることが多い。死んだらどうなるか、考えてみてもわからなくて、それが死の魅力でもあったし、早く死というものを経験したいなぁと思っていた。小さい頃母に、早く死んでみたいという趣旨のことを言って軽く怒られた記憶もある。

どうでもいいけど死っていう漢字がもうすでにネガティブな感じがする。もちろん、本当は順番が逆なんだろうけど。

どうしてこんなに死について考えてしまうのだろうか。 死んだ後の世界について考えてしまうのだろうか。 死ぬ直前の世界について考えてしまうのだろうか。

高校を卒業してすぐに母は亡くなった。亡くなる数年前から病気がちだったが、いつものような風邪を引いたと思って、それが長引いているだけだろうと考えていたから、突然の死だった。

死について、何回も考えたことがあるはずなのに、自分の本当に近しい人が死ぬまで、その人が死ぬということを実感できないのはなんとも滑稽なことのように思う。ドラマなどによく出てくる、実感が湧かないという言葉の意味を本当に理解した瞬間だった。

いつもはクールな兄が、母の棺の前で1人で泣いていた時、兄が母を愛していたこと、母が兄のことを愛していたことも理解できた。 お転婆と呼ぶにはあまりにもうるさい、すぐ感情的になる姉がいつものように(いつもとは全く違う)感情を発散させていても鬱陶しいとは思えずに、ただただ共感できるのはこれくらいだったかもしれない。

自分は末っ子で可愛がられていることは自覚していたつもりだったが、おそらく兄弟全員が自分は可愛がられていると実感出来ていたんだろうなとも思った。

それを経験しているかどうかで、死についてどこまで考えられるかのレイヤーは変わってくるのかもしれない。

それ、とは、身近な人の死かもしれないし、自分が事故に遭う直前だったりする人もいるだろう。

ただ、死をどこまでリアルに捉えることができるかは、人によって変わってくるだろうし、リアルに捉えることができたとしても、すぐに忘れ去ってしまう人もいるだろう。

突然だが自分の好きな人には、身近な人の死は経験してもらいたくない。代われるものなら代わりたいとも思う。

死んだら何も知覚することができなくなって、無になることを信じるようになったのはいつからだろうか。

おそらく最初は兄の影響だろう。兄は死んだら無になる根拠として、思考自体は脳の電気反応の結果であることを主張していたように思う。

兄を盲信していた自分は、それをすんなり受け入れ、その主張が科学的であることを疑わなかった。それどころか、そのような思考をできることを誇らしくも思っていた。

今の自分はどうだろう。現時点でも死んだら何も残らないということを受け入れているのは、まだ兄の影響が残っているのだろうか。

はっきりそれについて答えることはできない。ただ、昔の自分との違いを挙げるとするなら、死んだ後何かあるかどうかについて、科学は沈黙していることを理解したことだ。科学は死んだ後のことについて何も語らない。現時点で何も語れないのだ。これは科学が使えないモノなのではなく、そういう性質のモノだというだけだ。

仮に思考するということが脳の電気信号のやりとりだということが判明したとしても、死んだ後について語ることは難しいと思っている。死んだ後、実際にどうなるかを検証することが不可能に近いと考えているからだ。(自分には検討もつかない方法で検証する方法が出てくるかもしれないが)

しかし、そもそも意識については、量子力学でも公理の中に組み込んでいたりで*1、存在そのものについて検証するのにはまだまだ時間がかかると考えているから、仮定が成り立つのもずっと後のことだろう。

死というものを真面目な顔で話せる人はどれだけいるだろうか。身近な人に話してみても、まるで自分は無関係ですと言わんばかりの人がいるが、それを否定するつもりはない。それはそれでいいと思う。

自分は死について考える時間というのは大切だと思っているが、それだけを考えていても、死ぬために生きるようなものだろう。

よりよく生きるために死について考えるのは有効な手段だろうとは思う。 ただ、よりよく、とはどういうことだろう? 明日死ぬのと、自分の達成したい目標を達成してから死ぬのでは後者の方が「よりよい」のだろうか?

誤解されてしまうかもしれないが、極端なことを言ってしまうと、殺人の罪で死刑にされるのと、家族や友人に見守られながら死ぬのでは後者を選択したい人の方が多いのではないだろうか?

少なくとも自分はそうだ。でもなぜそうであるか、うまく答えることができない。死んだ後、何も残らない、何も感じることができないことを本当に信じている人ならば、生きるということの意味は無くなるのだろうか?

どんな問題も、大抵は時間が解決してくれる。どんな人も経験があるだろうと思う。でも、時間が経つと生物は死ぬようにできている。その時には、全ての問題は存在しない。

問題がない、ということは、マイナスがない、すなわちゼロ以下にはならないということを指し示しているだけなのだろうか? 人はゼロ以上を求めたいから、生きるのだろうか?

こんなことを考えても日々の生活にいい影響が出ないだろう。人よりも死について考えていることで、生について考えているつもりになった、くだらない自己満足を得るだけだろう。

問題を解くことが重要なのだろうか。目標を設定することが重要なのだろうか。自分の感じるままに生きることが重要なのだろうか。それらのバランスが重要なのだろうか。

好きな音楽を聞いている時、街中を歩いている時のふとした瞬間、空を見上げた一瞬、夕焼けがビルの窓に反射する時、金木犀の匂いが漂っている時、世界の隠れた在り方を考えている時、寝っ転がりながら星空をみている時、恋人の喜びそうなケーキを選んでいる時、自分の好きな食べ物を想像している時、友達とゲームをしている時、生きるということについて無意識に理解しているのかもしれない。

普段隠すつもりもないのに隠れている感情の密度が高くなって、少しずつ溢れて、身体の周りに薄い感情の膜が張り、それに包まれているような感覚を覚えることがある。

その一瞬を感じるために、他の時間を費やしているのだろうか。その瞬間を増やそうとすることがよりよく生きることなのだろうか。 油断するとそれらが真理だと思えてしまうくらい、その瞬間の感情の高まりは大きい。

少なくとも自分は、死ぬ直前になって、こうしていれば、ああしていればよかっただろうなって思うことが、1つくらいは出て来ることは明らかだ。そのようなことを考えながら死ねる人もそう多くはないのかもしれないが。

つまり何が言いたかったのだろう。

死について考えることは、生の輪郭をハッキリさせる場合がある。 そして死について考えるキッカケは、自分以外の死を経験した場合に多いのではないのだろうか。 ただ、死について考える必要がないのであれば考えないまま死んで行けることも1つの幸せなんだろう。 仲が良ければいいほど、一緒に死について考えたいと思う反面、考えないで済むなら考えないで欲しいとも思う。

他の死を経験しないで済むならそれが1番いいと思ってしまうのは、弱さなのだろうか。

弱いということはよくないことなのだろうか。

・・・

途中まで書いて力尽きてしまったので、とりあえずここまでで公開しちゃおう。 そのうちまた書き出すかも。

*1:自分も専門家ではないので、正しくない可能性があります