素直さの定義(WIP)

大学4年生の時、素直さについて真面目に考えていた時があった。

今朝、ふとそのことを思い出したので書いてみよう。

イエスマンとしての素直さ

素直について考え出した時、最初にパッと思いついたのはイエスマンに近いものだった。

まだ小さい子供に対して、〇〇ちゃんは素直で可愛い、なんていう時にはこれに近いのではないか。

相手がいったことに対して拒否反応を示さず、「素直に」行動する。

だが、これだけでは素直という言葉から感じるイメージを表すには十分でないと感じた。

透明性としての素直さ

なんというか、ただのイエスマンからはその人自身が見えてこない。

例えるなら、イエスマンとしての性質は壁みたいなものかもしれない。こちらが何かのアクションをしても一定の反応しか返ってこないし、同じ側面しか見えない。

素直であることはどうもそんな無機質なものには思えない。

むしろ、素直であることを通して、その人が大切に思っているものが見えてくるような、そんな性質な気がする。

こちらも無理矢理例えるなら、窓のようなものだろうか。その窓を覗くと、その人がどんなことを考えているのか見えるし、わざわざ自分を隠そうとするわけでもない、そんなイメージだ。

ここまで考えて、自分が持っている素直さのイメージと近づいてきた感じはあったが、何かもうちょっと足りない。

芯のある素直さ

素直に入っている「直」から連想しているのかもしれないが、素直な人をイメージすると強い芯を感じる。

透明性の部分に書いたことと近いが、素直な人に共通することは、その人らしさを持っていることだと思う。

素直だからその人らしさを持っているのか、その人らしさを持っているから素直なのか、順番でいうと どちらになるんだろうか。

もちろんはっきりと定まるものでもないかもしれないが、どちらかといえば素直さが先んじているような気もする。

まとめ

他者が言ったことや、生きていれば遭遇する全てのイベントを、まず受け止めて、そこからそれを吸収するかどうかを決められるような、クレバー?なことことを素直としよう、みたいな結論になった気がする。

まだ書きたいことあったけど、文章化するの難しいので一旦ここまでにして後からまた編集しよう

追記

この頃に読んだ本で、外部刺激を一旦保留して、それを自分の中に取り込むのか取り込まないのか決めるようなことを推奨というかそういうことが書いてあった。

ポジティブな死(仮)

昔から死について考えることが多い。死んだらどうなるか、考えてみてもわからなくて、それが死の魅力でもあったし、早く死というものを経験したいなぁと思っていた。小さい頃母に、早く死んでみたいという趣旨のことを言って軽く怒られた記憶もある。

どうでもいいけど死っていう漢字がもうすでにネガティブな感じがする。もちろん、本当は順番が逆なんだろうけど。

どうしてこんなに死について考えてしまうのだろうか。 死んだ後の世界について考えてしまうのだろうか。 死ぬ直前の世界について考えてしまうのだろうか。

高校を卒業してすぐに母は亡くなった。亡くなる数年前から病気がちだったが、いつものような風邪を引いたと思って、それが長引いているだけだろうと考えていたから、突然の死だった。

死について、何回も考えたことがあるはずなのに、自分の本当に近しい人が死ぬまで、その人が死ぬということを実感できないのはなんとも滑稽なことのように思う。ドラマなどによく出てくる、実感が湧かないという言葉の意味を本当に理解した瞬間だった。

いつもはクールな兄が、母の棺の前で1人で泣いていた時、兄が母を愛していたこと、母が兄のことを愛していたことも理解できた。 お転婆と呼ぶにはあまりにもうるさい、すぐ感情的になる姉がいつものように(いつもとは全く違う)感情を発散させていても鬱陶しいとは思えずに、ただただ共感できるのはこれくらいだったかもしれない。

自分は末っ子で可愛がられていることは自覚していたつもりだったが、おそらく兄弟全員が自分は可愛がられていると実感出来ていたんだろうなとも思った。

それを経験しているかどうかで、死についてどこまで考えられるかのレイヤーは変わってくるのかもしれない。

それ、とは、身近な人の死かもしれないし、自分が事故に遭う直前だったりする人もいるだろう。

ただ、死をどこまでリアルに捉えることができるかは、人によって変わってくるだろうし、リアルに捉えることができたとしても、すぐに忘れ去ってしまう人もいるだろう。

突然だが自分の好きな人には、身近な人の死は経験してもらいたくない。代われるものなら代わりたいとも思う。

死んだら何も知覚することができなくなって、無になることを信じるようになったのはいつからだろうか。

おそらく最初は兄の影響だろう。兄は死んだら無になる根拠として、思考自体は脳の電気反応の結果であることを主張していたように思う。

兄を盲信していた自分は、それをすんなり受け入れ、その主張が科学的であることを疑わなかった。それどころか、そのような思考をできることを誇らしくも思っていた。

今の自分はどうだろう。現時点でも死んだら何も残らないということを受け入れているのは、まだ兄の影響が残っているのだろうか。

はっきりそれについて答えることはできない。ただ、昔の自分との違いを挙げるとするなら、死んだ後何かあるかどうかについて、科学は沈黙していることを理解したことだ。科学は死んだ後のことについて何も語らない。現時点で何も語れないのだ。これは科学が使えないモノなのではなく、そういう性質のモノだというだけだ。

仮に思考するということが脳の電気信号のやりとりだということが判明したとしても、死んだ後について語ることは難しいと思っている。死んだ後、実際にどうなるかを検証することが不可能に近いと考えているからだ。(自分には検討もつかない方法で検証する方法が出てくるかもしれないが)

しかし、そもそも意識については、量子力学でも公理の中に組み込んでいたりで*1、存在そのものについて検証するのにはまだまだ時間がかかると考えているから、仮定が成り立つのもずっと後のことだろう。

死というものを真面目な顔で話せる人はどれだけいるだろうか。身近な人に話してみても、まるで自分は無関係ですと言わんばかりの人がいるが、それを否定するつもりはない。それはそれでいいと思う。

自分は死について考える時間というのは大切だと思っているが、それだけを考えていても、死ぬために生きるようなものだろう。

よりよく生きるために死について考えるのは有効な手段だろうとは思う。 ただ、よりよく、とはどういうことだろう? 明日死ぬのと、自分の達成したい目標を達成してから死ぬのでは後者の方が「よりよい」のだろうか?

誤解されてしまうかもしれないが、極端なことを言ってしまうと、殺人の罪で死刑にされるのと、家族や友人に見守られながら死ぬのでは後者を選択したい人の方が多いのではないだろうか?

少なくとも自分はそうだ。でもなぜそうであるか、うまく答えることができない。死んだ後、何も残らない、何も感じることができないことを本当に信じている人ならば、生きるということの意味は無くなるのだろうか?

どんな問題も、大抵は時間が解決してくれる。どんな人も経験があるだろうと思う。でも、時間が経つと生物は死ぬようにできている。その時には、全ての問題は存在しない。

問題がない、ということは、マイナスがない、すなわちゼロ以下にはならないということを指し示しているだけなのだろうか? 人はゼロ以上を求めたいから、生きるのだろうか?

こんなことを考えても日々の生活にいい影響が出ないだろう。人よりも死について考えていることで、生について考えているつもりになった、くだらない自己満足を得るだけだろう。

問題を解くことが重要なのだろうか。目標を設定することが重要なのだろうか。自分の感じるままに生きることが重要なのだろうか。それらのバランスが重要なのだろうか。

好きな音楽を聞いている時、街中を歩いている時のふとした瞬間、空を見上げた一瞬、夕焼けがビルの窓に反射する時、金木犀の匂いが漂っている時、世界の隠れた在り方を考えている時、寝っ転がりながら星空をみている時、恋人の喜びそうなケーキを選んでいる時、自分の好きな食べ物を想像している時、友達とゲームをしている時、生きるということについて無意識に理解しているのかもしれない。

普段隠すつもりもないのに隠れている感情の密度が高くなって、少しずつ溢れて、身体の周りに薄い感情の膜が張り、それに包まれているような感覚を覚えることがある。

その一瞬を感じるために、他の時間を費やしているのだろうか。その瞬間を増やそうとすることがよりよく生きることなのだろうか。 油断するとそれらが真理だと思えてしまうくらい、その瞬間の感情の高まりは大きい。

少なくとも自分は、死ぬ直前になって、こうしていれば、ああしていればよかっただろうなって思うことが、1つくらいは出て来ることは明らかだ。そのようなことを考えながら死ねる人もそう多くはないのかもしれないが。

つまり何が言いたかったのだろう。

死について考えることは、生の輪郭をハッキリさせる場合がある。 そして死について考えるキッカケは、自分以外の死を経験した場合に多いのではないのだろうか。 ただ、死について考える必要がないのであれば考えないまま死んで行けることも1つの幸せなんだろう。 仲が良ければいいほど、一緒に死について考えたいと思う反面、考えないで済むなら考えないで欲しいとも思う。

他の死を経験しないで済むならそれが1番いいと思ってしまうのは、弱さなのだろうか。

弱いということはよくないことなのだろうか。

・・・

途中まで書いて力尽きてしまったので、とりあえずここまでで公開しちゃおう。 そのうちまた書き出すかも。

*1:自分も専門家ではないので、正しくない可能性があります

本質と、外から見た本質の姿

今まで、なぜ?と繰り返し問いを突き詰めて行った先に本質があると思っていたが、そうではないかもしれないと少し思った。

例えば何かを学習する際、手を動かす、というのは本質的なものなのだろうか。

今まではこれは方法論であって本質ではないと考えていた。

しかし、手を動かした先に経験がある。経験から人は学ぶことができる。ならば、そのきっかけを与える「手を動かす」ということ自体を学習の本質といってしまってもいいのでは無いか。

世に溢れる、ことわざや格言などについても同じようなことが言えるのかもしれない。

深い経験をした人が、その本質を例えるために表象の部分をいっていると思っていたが、その表象こそが本質と同等の意味合いを持っているものなのでは無いか。

その本質と表象を結び付けられる人にしか本質を感じられないという意味では、経験もない状態でどうやって結びつけるかは難しいところだが。

手を動かすことの階層性

手を動かすにもレベルがあるなと思った。数学で言えば、教科書を読んで問題を解かないことが手を動かすレベルなのか、それとも教科書を読むこと自体が手を動かすことなのか。

何かを学習したいと考えているだけの人にとって、教科書を読み始めた人がいたならそれは手を動かしている。 教科書を読んでいるだけの人にとって、問題を解いている人がいたならそれは手を動かしている。 問題を解いているだけの人にとって、それを他に応用しようとしている人がいるならばそれは手を動かしている。

fpinscala 関数型デザイン&プログラミングの./sbtに失敗した

環境:macOS High Sierra/10.13.6

準備:以下の記事

kichijojipm.hatenablog.com

この記事の通りに進めて行けばだいたいできるようになるはずなんですが、自分の場合

$ ./sbt 

を実行するとjava.lang.NullPointerExceptionが出て怒られました。

 使ってるjavaのバージョンを確認すると、

$ java -version

openjdk version "11.0.2" 2019-01-15
OpenJDK Runtime Environment 18.9 (build 11.0.2+9)
OpenJDK 64-Bit Server VM 18.9 (build 11.0.2+9, mixed mode)

openjdkの11を入れてたみたいです。

他のバージョンが入ってないか確認

$ /usr/libexec/java_home -V

11.0.2, x86_64: "OpenJDK 11.0.2" /Library/Java/JavaVirtualMachines/openjdk-11.0.2.jdk/Contents/Home

もうちょい表示されると思いますが割愛。

とりあえず11しか入ってないみたいです。

 

java8なら動くかもと思い8のopenjkdのadoptopenjdk8を入れることにしました。

↓参考

qiita.com  

$ brew cask install adoptopenjdk8 // 入ってなければopenjdk8のインストール

$ /usr/libexec/java_home -V // インストールされてるバージョンの確認

Matching Java Virtual Machines (2):Matching Java Virtual Machines (2):    11.0.2, x86_64: "OpenJDK 11.0.2" /Library/Java/JavaVirtualMachines/openjdk-11.0.2.jdk/Contents/Home    1.8.0_222, x86_64: "AdoptOpenJDK 8" /Library/Java/JavaVirtualMachines/adoptopenjdk-8.jdk/Contents/Home
/Library/Java/JavaVirtualMachines/openjdk-11.0.2.jdk/Contents/Home

$ export JAVA_HOME=`/usr/libexec/java_home -v "1.8"` // 使うjavaの切り替え

$ PATH=${JAVA_HOME}/bin:${PATH} // pathに追加

$ java -version // 現在使ってるjavaのバージョン

openjdk version "1.8.0_222"
OpenJDK Runtime Environment (AdoptOpenJDK)(build 1.8.0_222-b10)
OpenJDK 64-Bit Server VM (AdoptOpenJDK)(build 25.222-b10, mixed mode)

無事に8の方も入って、切り替えもうまくいってるみたいですね

ちなみにjava_homeの設定やmacにおけるjavaのバージョン切り替えも詳しくないので雰囲気でかいてる部分が多いです 細かいところはわからないのでご容赦ください

これで./sbtを打ったら動きました